代表曲「また逢う日まで」で有名なポップシンガー、尾崎紀世彦さんがお亡くなりになってから長い年月が経ちました。
目鼻立ちのはっきりとした日本人離れのお顔は、彼がクォーターだったからです。
ワイルドなもみあげと髭がトレードマークでした。
彼のご家族には、稀な経歴を持つすごい兄の存在も…
尾崎さんに引けを取らないすごい兄のご活躍や、「また逢う日まで」がヒットするまでの意外なエピソードについても調べてみました。
尾崎紀世彦のすごい兄
2022年3月現在もご健在で勢力的に活動しているのが、すごい兄の彰彦さん。
自身もクラシックバレエダンサーとして活躍した後、青少年のためのバレエコンクール「ザ・バレコン」の実行委員長を務められています。
現役の頃には、世界各地で公演を催され、様々な芸術賞を受賞されたりもしました。
さらに、名古屋でバレエ団を設立したり、研究のためにソ連(当時のロシア)を訪問したりと人生をバレエに捧げたような方なのです。
87歳なんて高齢になっても、イベントの演出をされていらっしゃいますから、どれだけバレエに対する情熱をお持ちかは計り知れません。
彰彦さんが「尾崎紀世彦のすごい兄」と言われる所以は、その才能と行動力にあったのですね。
激動の昭和時代にスターとして生きる上で、彼を取り巻く環境はどのような影響を与えたのでしょう。
男性3人兄弟だった尾崎さんは、小学生でサーフィンを始めたり、中学生でバンドを結成したりと活発な幼少期を過ごされたようです。
弟の征彦さんはお亡くなりになっていますが…
茅ケ崎市内でステーキハウスを経営されていたみたい。
お店の口コミには「頑固だけど気さく」「腕は間違いない」などのレビューが見られました。
尾崎紀世彦はクォーター、祖父はイギリス人
尾崎さんにはイギリス人のお祖父様と日本人のお祖母様がいます。
お祖父さまは神戸の領事館でお仕事をされていたそうです。
また、尾崎さんのお父様はハーフのバレエダンサーとして名を馳せ、お母様もショーダンサーをされていたことがわかりました。
その影響か、外見だけでなく、彼のダイナミックなマイクパフォーマンスは欧米人のようでした。
当時「和製トム・ジョーンズ」と周囲に言われていたそうです。
洋楽曲のカバーもされていて、ヒット曲の「また逢う日まで」には英語バージョンもあるそうです。
違和感無く英語の曲をファンの心に届け、当時の若者に洋楽への興味を持たせることにも、彼が一役買っていたのではないでしょうか。
尾崎紀世彦のプロフィール
- 東京都渋谷区生まれ、神奈川県茅ケ崎市育ち
- 男性3人兄弟の次男
- 趣味はサーフィン、乗馬、バイクでのツーリング
- 数年間バンドに所属した後、1970年にソロデビュー
- 代表曲の「また逢う日まで」は100万枚を超える大ヒットを記録
- 私生活では2度の離婚をしている
- 2012年に失踪疑惑がマスコミに取り上げられる
- 失踪は家族が否定し入院していることが判明したが、翌月に肝臓がんで逝去(享年69歳)
初めてバンドを結成したのは13歳の頃で、ソロデビューまでに計3つのバンドに所属していました。
きっかけは、お父様に買ってもらったウクレレだったそう。
最期のバンドメンバーとは、ソロデビューしてからも交流があったようです。
「また逢う日まで」のレコーディングにも彼らが参加し、バックコーラスを担当しています。
「また逢う日まで」はエアコンのCMのために作られた曲だった!
尾崎さんのヒット曲は、初めから彼の為に作られた曲ではなかったようです。
実際に聴いてみると、サビの部分はとても感動的なのに、イントロの部分はお別れの曲とは思えないメロディ。
最初はエアコンのCMに使われる予定だったことがわかると、確かに耳に残るようなメロディがCMに適しているイメージが湧きます。
ただし、その曲は大人の事情でCMに使われることが白紙になったのです。
ですが、その曲はズー・ニー・ブーというグループによって、「ひとりの悲しみ」というタイトルでリリースされました。
作詞を担当したのは同じ阿久悠さんでしたが、タイトルが違えば、当然歌詞も全く違うものでした。
ズー・ニー・ブーは次の曲でヒットすることになるのですが、その頃、尾崎さんはデビューしたばかりで、「ひとりの悲しみ」をとても気に入っていました。
しかし尾崎さんは、タクシー乗車中に事故に遭遇してケガをしてしまったことで、全くプロモーション活動ができなかったそう。
当然デビュー曲はヒットしませんでしたが、周囲の方々は彼の才能を信じていました。
その思いが原動力となって、阿久さんが歌詞を書き直し、「また逢う日まで」が完成したのでした。
まとめ
今回の記事を整理するとこんな感じです。
- 尾崎紀世彦さんにはバレエダンサーで演出家のすごい兄がいる
- すごい兄は世界各地で活躍し、数々の受賞歴がある
- 祖父はイギリス人で、尾崎さんはハーフでなはくクォーターだった
- ヒット曲の「また逢う日まで」はCMのために作られた曲だった
尾崎さんがステージで歌う姿は印象的で、マイクの持ち方や感情を込めたズラし方まで、ご本人のこだわりが見えてきます。
お亡くなりになってから時間が経っても、彼の歌は人々にずっと愛され続けていくことでしょう。